鏡の中のわたしは知らない人

 

わたしは

 

自分のことはすきだ

 

たぶんだれにも言ったことないけど、鏡にうつった自分を見て、お、かわいいなっていつも思ってる

 

でもそれは家の鏡の前でだけ

 

 

 

学校のトイレで、駅のトイレで、友達の家の洗面所で、

 

完全にひとりの空間じゃなくなっただけでその感情はなくなる。

というかあるのはあるんだけど、表に出てこなくなる。

 

わたしはメイクに関心があっても、面倒だったりメイクをした自分の顔がすきじゃなかったりして、メイクにあまり力を注がない。というかたまたま気が向いたとき、1年に数回程度しかしない。

 

髪も、スタイリングしたらもっとかわいくなるかな、かっこよくなるかなって思うけど、朝起きられないし面倒だし準備の時間配分が大抵合わないし、でほとんど手を加えないで過ごしてる。

 

 

 

そうすると外出先で鏡の前に立った時、こんなに外見に力を注いでないのに、鏡で何をチェックするんだ?とそわそわし始める。

 

変なとこないかなって確認するために立ったのに、髪を結び直すために立ったのに、目やについてたらやだなとか思って立ったのに、

 

わたしみたいなやつが鏡の前立って外見気にしてるの変だよねーー、気にするほどきれいにしてないのにねー、だれも見てないのにねーー、みたいに思い始める。

 

 

そしてこれがわたしの声じゃないことはわかってる。

だって本当は鏡の前に立って自分の姿を見るのはすきなのだから。

 

風呂入ってたって、シャワーが水からお湯にかわる間にすぐ鏡で表情変えて遊び出すし、お気に入りの服を着たら帰宅後着替える前に自撮りだって撮る。

 

だれの声かもわからない、わたしを責める声に怯えて、そそくさとトイレを洗面所を出ていく姿は、本当にすきになれない。

 

今鏡の前に立っているわたしはだれなんだろうね。

家にいる時とは別人みたいな顔してるね。

鏡の中のわたしは全然励ましてくれないね。

鏡の中のわたしもだれなんだろうね。

 

いつかこの鏡にうつる知らない人をわたしの中に感じられたらいいな。

 

わたしがわたしを掴んでさえいれば

今日、昼にカウンセリングに行ったんだけれど、そこでわたしの苦しかった6年間をカウンセラーさんが見つけてくれて、うれしくて泣きそうになった。

でも泣きだしたら話せなくなりそうだったから、涙が出そうになる言葉の2ミリとなりぐらいの言葉を選びながら話して、1時間のカウンセリングは終わった。

 

その6年、なにがあったかというと、自分が誰だかよくわからなかった。

なぜなら、わたしは中学から高校に上がるときに自分でもなんでかわからないのだけれど別人のように性格が変わったから。

 

それまで人の目を集めるのがすきだったわたしが、なにかに怯えて過ごすようになった。くりかえすけど、理由はなぜだかわからない。

でもとにかく、自分の言動すべてが疑わしかったし、視界はたいていモニターを通してみているような感じがした。

 

そこから高校3年間はよくわからないまま終わって、大学生になった。大学生になってからは少し変化があった。怯えなくてもいいことに気づける機会があった。怯えていることを口に出せる場所があった。わたしを怯えさせるなにかは、たぶんわたしのせいだけじゃないことがわかった。自分でも怯えないようにするにはどうしたらいいのかもがいた。

 

少しずつ自分を感じることができるようになって、本当に最近、2週間前ぐらいから中学生の時のわたしを思い出すような振る舞いをするようになった。

中学から今の間の6年間、これがまったくわたしでなかったわけではないだろうが、でもなんか戻ってきた自分に、ああ、こんなんだったっけね、「このわたし」がわたしの中に存在することがなんでこんなに大変だったんだろうって思った。

 

 

 

今日のカウンセリングではもっともっとざっくり話したわけだけど、でもわたしが自分の気持ちと向き合ってきたことを、カウンセラーさんはすごいねって言ってくれた。自分の気持ちをなかったことにしないように拾って、考えて、どうしたら次につながるか練って、動いてまた拾って……

 

自分が誰だかわかんなかったところから、自分の気持ちをわかって掴んで離さないようになるまで。このことをあまり人に話したこともなくて、このこと自体もわたしが離さないようにしていないとどこかに消えてなくなってしまいそうだったから、それがだれかの意識の中にあったのがうれしかった。

 

 

ここまではよくて、

 

夜、最近出会ったばかりの人と話をしたのだけれど、もっと躊躇わずに思ったと同時に動いていいんだよ、と言われて、

 

たぶん優しさで言ってくれたのだと思う、躊躇う必要はないよって。

でも、なんか、6年かけてやっとここまで来たというか、むしろ最近は調子が良かったし、てか躊躇う必要がないなんて6年前から知っているし、できるならもうとっくにやってるよ、みたいななんか、その人もわたしのことをあまり知らないし、わたしもその人をよく知らないし、で。あーーーーーなんかずれていくやばい、やばいってなって。

 

わたしにとっては大きな前進だった6年間は、この人にとっての理想よりはるか手前で、いや今の自分に満足してるわけじゃないけど、でもこの過去の歩みは結構頑張ってしたしな、とか思ったりして。

 

この6年についてちゃんと知ってるのはわたしだけだし、てかわたしが大事にしているうちはちゃんと存在するし、手放さなければ消えないし、誰かに認識されていなくたってわたしが知っていれば、

 

とにかくわたしが覚えている限りはだいじょうぶだから、と自分に言い聞かせて帰ってきた。でも悔しくて悔しくてしょうがなかった。今この相手にとっては存在すらない6年間、理想から離れたわたしが目の前に座っているだけ。そんなことに怒ってもしょうがない。

 

 

でも、だからこそ、怒ってもしょうがないけど、言葉に出したってしょうがないけど、わたしだけはわたしのことを覚えておくから。大事に掴んでおくから。手放さないから。

お守りのようになんどもなんども頭の中でここにちゃんとあるよと繰り返した。

あなたの宇宙に、わたしはいた。

 

しばらく元気だったのにここ数日鬱がひどくなって、昨日はごはん食べきれなくてその後眠って、アヤノちゃんのライブがあるのに動けなくて、気づいたら開演に間に合わない時間になってて。

 

ライブ行くの初めてだったし鬱だったしでどうでも良くなりつつあったんだけど、もうこの世の終わりだくらい沈んでいたから、終わるんだったらその前にちょっと聴きに行こうと思って行った。

 

途中からでほんと申し訳なかったんだけど、とりあえず中入れて、曲終わるまではドアの近くで待って、そしたらその位置からはアヤノちゃんの姿は見えなかったんだけど歌声を聴いただけで涙出てきちゃって、ずっと苦しかったのに最近涙が出なかったからびっくりして涙止まんなくなっちゃって。

 

 

わたしには涙が止まらない脆い時と涙が出ない脆い時とがあるんだけど、わたしは後者の方が危ない状態なので、本当に助かった。泣けたのが本当にうれしかった。

 

まだ死んでなくてよかったな、またアヤノちゃんの歌を聴くために生きていくのかな、遅れてでも来てよかった、ぐちゃぐちゃのままでいいから明日迎えてみるか

 

そんなこと考えながら聴いてた。

 

 

 

帰りは疲れちゃって電車乗るまで30分くらい駅前で動けなくなっちゃったけどなんとか帰ってきて、ご飯食べて、少し寝て、今湯船でこれ打ってる。なんとかやっていこう。そんな風に思いながらまたアヤノちゃんの歌を聴いてる。

 

あのときホールでアヤノちゃんの歌を聴いてる間だけは体がすごく軽くてわたしは宇宙に浮いてるのかなと思った。

親にカミングアウトをするかもしれない話

 

こないだ親と話したときに、わたしの友人らとの1+1=1+1みたいな関係性だったり、恋愛や性的な惹かれからだれかとパートナー関係を結ぶという可能性が低いことだったりをわかった上で、「あなたはどうせ結婚しないでしょう?今いる友達との関係すごいいいと思うから大事にしな。そういう関係羨ましいよ」と言ってもらえたため、この人にカミングアウトするという選択は全然ありなんじゃないか???となっている。

 

これまで苦しかったことやこれからどんな扱いを望むかみたいな話もしたいけど、わたしのこれからの生を考えたときに相談先や吐露する先がないことが多いため、少しでも味方を増やしておきたいというのが正直なところである。

大学の窓口に頼った結果マイクロアグレッションに疲れる日々の中(でももう行きませんとスパッと切れるほど精神的にも情報的にも余裕はない)、その大学から受けた扱いの苦しみだったり、就活の愚痴、身近な友人には話しにくいことの吐き出し先としてお話を聞いてくれる人がいるととても心強い。

 

誰にも言えないことは本当にしんどいことを約5年間のクローゼットだった期間に痛感した。(ちなみに今はかなり友人らにはオープンにしている)

 

 

まあ実際に相談するかは別としても、わたしがこのわたしのまま、クィアであることを誇ったまま、社会の構造に抵抗しながら生を築いていこうとする姿を応援してくれる人がいるだけでずいぶん違うだろう。

6年ほどかけてこれまで築いてきた親との関係性、「でもお母さんはこう思うよ」から「あなたはそう思うんだね」への移行を信じて、本格的にカミングアウトをする準備をしてもいいタイミングかもしれない。

しゃがんだらダンゴムシがいた

 

ひどく衝動的な希死念慮があった、という日記です。

 

 

今日は親がうちに手伝いに来ている日で、一緒に部屋を掃除したり買い出しに出かけたりした。必要なもの以外にも少しの贅沢をして楽しい日だった。

 

でも、昼ご飯後と家族が帰った後の2回、わたしは希死念慮に苦しむことになる。

 

わたしの場合希死念慮が起きるのは、大抵特定の理由が存在するわけではなくぼんやりと日々に絶望した時である。でも今回はその中でも特にきっかけがわからなすぎてすごく困惑した。かなり明るい気持ちで朝布団から出ることができて、会話も積極的で体も軽く人を気遣う余裕もあった。抑うつも強くなかったので今日は良い一日になるのでは~なんて午前中は思ってた。

 

でも、お昼を食べたあと急に「死にたい!!!!」と強い衝動が襲ってきて、そわそわし始めた。でもずっと家族と行動していたしそれを表に出すのも嫌だったので、とりあえずイヤホンをつけ大きな音で音楽を聴くことでなんとか意識を希死念慮からそらし落ち着けた。

 

その後はまたかなり楽しく過ごしていたのだが、家族が帰るとなったその時再び「あ、今死にたい。今」って思ってこのままじゃやばいなと感じた。こういう気持ちが落ち着かないときはいつも散歩をしてぼーっとするので、今日もとりあえず歩こうと傘とお財布と携帯だけを持って出かける。

 

歩きながら、今回はいつもと違うなと思っていた。なぜならいつもは15~30分ほど自分の中でおなじみになっている散歩コースを歩けば何となく体が軽くなっているのだが、歩けば歩くほどそわそわと落ち着かなくなり、いつもなら曲がるところをまっすぐ進んでしまった。このまままっすぐ進み続けたらどうなるかな、大学まで歩いちゃおうかな(片道歩いて40分かかる)、朝まで歩き続けてみる??友達んち押しかけてみちゃう!?と普段の自分なら考えもしないようなことを思いついては興奮していた。

 

いよいよそんな自分のそんな状態に怖くなってきて、すでに信号3つほど曲がるのをスルーしたあたりでなんとか左折してすこしだけ帰宅に近づいた。近くの交差点でもう一回左折すれば自動的に家に着く。でも曲がりたくない。ふらふらと重心を左右に揺らしながら次にわたしがとった行動は、その場に座り込むこと。

 

もうだめだ、と思って道端で丸くなっていたら足元にダンゴムシが5匹ほどいた。

 

 

「そういえばダンゴムシっていう生き物いたな」と思った。

 

小学生のころあんなに登下校中ダンゴムシを探すのが好きだったのに、今のわたしの頭の中ではその存在は薄いんだな~。かわいいな。今日は少し雨降ったっぽいから出てきたのかな。もうそんな季節か。あれ、わたしまさか踏んでないよね。あ、だいじょうぶだ。踏んでなかった。……………帰るか。

 

 

 

わたしはその次の交差点を左に曲がることができた。なんかわかんないけどダンゴムシに助けられた。いつのまにか胸のざわざわそわそわする感じは落ち着いていた。

 

帰りながら今日は良い感じにおだやかだったからなんかもう今死ぬのがちょうどいいなとか思ったんかな、と考えた。毎日が続いていくこと、明日が来ることがこわいわたしにとっては区切りを入れるのにきりがよかったんだろう、たぶん。

 

希死念慮が~とは言いつつも、たぶんわたしは自分の首に手をかけることはしないだろうなと思っていた時もあったが、今回みたいな衝動的に動いてしまうときに自分が何をしだすかわからないため、ちょっと自分が信じられなくなったような気もする。

 

ちなみに一番希死念慮が強かったのは去年の7月で、その時は夜中に家の中をぐるぐるうろうろしたと思ったら頭を抱えてしゃがみこみぶつぶつ独り言を言い、また立って歩き回りだしてみたいのをずっと繰り返してた。自分の言動が明確に自分のコントロール外にある感じがしてすごく気持ち悪かった。

 

こういう時にどう対応したらいいかがまだわかっていないが、今回はとりあえず明日を迎えられそうだ。迎えたくはないのが本音ではあるが。

 

そろそろ眠いのでここらでこの日記は終わりにするとします。